バイト (雑誌)
| バイト | |
|---|---|
| Byte | |
| ジャンル | コンピュータ雑誌 |
| 刊行頻度 | 月刊 |
| 発売国 |
|
| 言語 | 英語 |
| 出版社 |
グリーン出版 バイト出版 マグロウヒル UBM |
| ISSN | 0360-5280 |
| 刊行期間 | 1975年9月号 - 1998年7月号 |
| ウェブサイト | www.BYTE.com |
バイト(BYTE)は、1975年9月に米国で創刊され、1970年代後半から1980年代末にかけて大きな影響力を誇ったマイクロコンピュータ雑誌(情報誌)[1]。雑誌名はコンピュータサイエンスの用語バイトに因んでおり[2]、BYTEではその用語と紛らわしいので英語ではこの雑誌名を指すにはBYTE Magazineなどと表記されることが多い。日本語ではバイト誌や『バイト』と表記されることが多い。
副題は「the small systems journal」(小さなシステムの情報誌)で、創刊号から表紙には次のように表示されていた
BYTE
the small systems journal
この副題は1979年12月号まで表示され続けた。
バイト誌は「小さいコンピュータとソフトウェア」という領域全体を扱い、技術を深堀りすることを特徴とした雑誌であり、マイクロコンピュータの標準的な技術(デファクトスタンダード)にも影響を及ぼした。
バイト誌は1975年9月、すなわち最初期のマイクロコンピュータとされるAltair 8800がキット品として電子工作雑誌(1975年1月号)に掲載された年に創刊した。月刊誌で、当初の年間購読料は10ドルだった。
当初は、次のような記事を掲載していた。
- 電子部品から自作するホームブリューコンピュータ。コンピュータのハードウェアの改造。周辺機器を自作するための電子工作記事(例:オシロスコープをマイクロコンピュータのディスプレイとして使うためのアダプターの自作など)。回路図なども掲載していた。
- Altair 8800やその互換機。すなわちS-100コンピュータ。(IMSAI 8080、Cromemco Z-1 / Z-2、Processor TechnologyのSOL-20、Vector Graphic Inc.の Vector 1、MITS社の Altair 680bなど)
- マイクロコンピュータ用プログラミング言語の解説。アセンブリ言語やBASIC。アセンブリ言語のソースコードも掲載した。
- マイクロコンピュータ用のOSであるCP/Mの解説
創刊年の1975年には、当時マイクロコンピュータ用のデータレコーダの記録方式が乱立していた状況を改善すべく、バイト誌が開催資金を提供して、記録方式の標準を定めるためのシンポジウムをミズーリ州のカンザスシティで11月に開催した。(そして、データレコーダの記録方式の標準、カンサスシティスタンダード(KCS)が定められた。)
バイト誌はマイクロコンピュータの新技術の記事を掲載しつづけ、1981年8月号(第6巻第8号)はSmallTalk特集号で、ポインティングデバイスのマウスやウィンドウシステムを扱った。この技術は当時は画期的で、普通のコンピュータ販売店では販売されておらずほとんどの人は見たこともない技術だった。バイト誌での掲載から数年後の1983年にAppleがLisaを発売するなど、マウスやウィンドウシステムはマイクロコンピュータ業界のデファクトスタンダードになっていった。コンピュータサイエンスに関する記事も掲載した。
世界的に高い評価を受けた雑誌であり、世界で広く流通した。アメリカ国外では、ヨーロッパでもアジアでも、総じて言えば、アメリカで印刷されたBYTE Magazineがそのまま輸出され書店に並ぶことが多かった。だが、オーストラリアの読者からは到着に日数がかかりすぎると苦情が出てオーストラリアのローカル版の印刷・発行が1977年1月に始まった[3][4]。そのほか 日本(1977年3月〜)、ブラジル、ドイツ、ヨルダンなどでは、現地の言語に翻訳された記事や現地で執筆された記事も掲載するローカル版(姉妹誌)ができた。#アメリカ国外での流通
1980年代中ごろから、コンピュータ雑誌の多くは特定システムに特化したり、ビジネス用コンピュータあるいはホームコンピューターなどの特定ジャンルに特化していったが、バイト誌は「小さいコンピュータとソフトウェア」という領域全体を扱い続け、時にはスーパーコンピュータや高信頼コンピュータなどの記事も掲載した。バイト誌はコンシューマー指向の雑誌になるのではなく、技術的詳細を深堀りすることを特徴としつづけた。プロフェッショナルなマイクロコンピュータ使用者(時にconsumer コンシューマー をもじって「prosumer (プロシューマー)」と呼ばれる人々[4])向けの雑誌だった。
1990年代後半にインターネットが普及し印刷雑誌が総じて苦境に陥る中、バイト誌も発行部数が減り1998年6月号を最後に休刊。2011年にインターネットメディアのByte.comとして一旦復活したが2013年に閉鎖となった。 バイトの名称とロゴは2012年も使われ続けていたが、オンラインのみであり、記事の方向性も従来とは異なったものであった[5]。
出版社は、創刊から休刊までの間に、何度か変わった。#歴史で詳述。
歴史
[編集]創刊
[編集]創刊号の編集作業は1975年5月25日から始まり、9月号が創刊号となった。初代編集長はカール・ヘルマーズで、1周年記念号で「バイトは1975年9月号から始まった。創刊号は1975年5月25日から7週間かけて制作された」と書いている。
出版元はニューハンプシャー州ピーターバラ(Peterborough)にあるGreen Publishing。その経営者はヴァージニア・L・グリーン。手元資金が少なかったので、家族からも出資金を借りた。
創刊号から第4号まで、Green Publishingは大部分の編集作業を、ピーターバラ周辺の個人や企業を下請けとして使ってさせていた。
ヴァージニア・グリーンとその元・夫ウェイン・グリーン(アマチュア無線雑誌『73』の関係者)の間にはいざこざがあった。
ヴァージニアは10年前にウェイン・グリーン(アマチュア無線雑誌『73』の出版元73 Inc. の元・営業部長)と離婚していたが、そのままグリーン姓を名乗っていた。
73誌はスタッフ能力に余力があったので、創刊から4号まで版下のほとんどを下請けとして制作した。その4号のうち3号で、ウェイン・グリーンは印刷に回す直前、無断で奥付に自分の名前を編集人として書き入れた。そのようなことが3度繰り返された後、ヴァージニア・グリーンは 73 編集部に依頼していた全ての仕事を止めさせ、別の業者やバイト誌自体のスタッフを使うようにした。
73 でのコンピュータ関連記事への反応は熱狂的で、ピーターバラ(ニューハンプシャー州)の我々も心を奪われた。5月25日、我々は小さなコンピュータ・ホビー誌(発行部数400部)を発行している出版社を買い取る契約を結び、8月から刊行予定の新雑誌 BYTE を編集することにした。[6]
- 1985年の Folio 誌の記事に「1975年11月のある日、ウェインが出社するとバイト誌のスタッフは1月号の原稿と共に出て行った後だった」とある[7]。Folio 誌は事実ではないことを書いたのだった。この記事内容に関して、ヴァージニア・グリーンは Folio 誌とウェイン・グリーンを名誉毀損で訴えた。Folio 誌はおろかにも、ウェイン・グリーンの証言を真に受けて、ヴァージニア・グリーンやカール・ヘルマーズ、ヴァージニア・グリーンの出版社設立に関わった法律事務所などに裏づけ取材(裏取り)をしていなかった[注 1]。虚偽報道をしてしまったFolio 誌と嘘をついたウェイン・グリーンは、裁判が始まる前にヴァージニア・グリーンに大金を支払って和解することになった。
1976年1月号では、編集人にヴァージニア・グリーンの名が記されている。
ヴァージニア・グリーン・ウィリアムソンの2人目の夫で弁護士のゴードン・ウィリアムソンは、ウェイン・グリーンについて書いた著書See Wayne run. Run, Wayne, runの中で、ウェイン・グリーンがバイト誌創刊に果たした役割は小さく、両者の間の訴訟もウェイン・グリーンに不利な形で決着したと書いている[8]。
1976年2月号では、この移転について「キーストン・コップスを髣髴とさせるロマンティックなオペレッタのように始まった後、バイト誌は最終的にオフィスを移転した」と記している。キーストン・コップスとは、要するにドタバタ劇である。
- なお、嘘をつきヴァージニアに提訴され大金を払うことになったウェイン・グリーンは(懲りもせず)、1976年秋、(BYTEに雑誌名を似せた)コンピュータ雑誌 Kilobyte の創刊を発表。バイト誌ではすぐに KILOBYTE を商標登録して、その名を冠した漫画を連載しはじめた。これ以降、バイト誌は様々な関連商標を登録することになった。バイト誌はウェイン・グリーンと Kilobyte を商標権侵害で訴え、ウェインは誌名を創刊前から Kilobaud(キロボー) に変更することになった。バイト誌は競合他誌については誌上で言及しない編集方針であり、ウェイン・グリーンの出版物についても同様だった。
どちらの出版社もピーターバラという小さな街にあり、その後もライバル関係が続いた。
初期
[編集]バイト誌には多くの原稿や広告が集まった。創刊号(1975年9月号)には、Hal Chamberlin の Which Microprocessor For You?(君ならどのマイクロプロセッサにする?)、ダン・フィルストラ[9]の Write Your Own Assembler(自分でアセンブラを書いてみよう)、ドン・ランカスターの Serial Interface(シリアル・インタフェース) といった記事が掲載された。広告は、ゴッドバウト、MITS、プロセッサ・テクノロジー、SCELBIなどから出稿があった。
初期には、電子機器やソフトウェアのDIY的記事を多く掲載した。エレクトロニクス技術者 Steve Ciarcia が連載した Ciarcia's Circuit Cellar は、コンピュータを改造したり拡張したりする小さなプロジェクトを次々と掲載した(なおこれが後に組み込みシステムに特化した雑誌 Circuit Cellar へと発展している)。このころの特筆すべき記事としては、音響テープにデータを記録するためのカンサスシティスタンダードについての記事、S-100バスにディスクドライブを接続する記事、各種プログラミング言語処理系のソースコード(Tiny C、BASIC、アセンブラ)、最初のマイクロコンピュータ用OSであるCP/Mについての記事などがある。マイクロソフト(当時は"Micro-Soft")の最初の広告(Intel 8080 向けのBASICインタプリタの広告)も掲載された。
1975年から1986年まで、表紙イラストは主に Robert Tinney が描いていた。
1979年、マグロウヒル社のバイト誌へ
[編集]1979年春、ヴァージニア・ウィリアムソン(創刊時にヴァージニア・グリーンと名乗っていた女性経営者)はバイト誌をマグロウヒルに売却した。ヴァージニアは売却後も1983年までバイト誌の編集に関わり続け(創刊から数えると約8年間の編集)、その後マグロウヒルの副社長となった。
1981年に IBM PC が登場すると、間もなく編集方針が変更された。徐々にDIY的記事を減らし、製品レビューを開始した。扱うハードウェアとソフトウェアの範囲は相変わらず広かったが、「何かをする方法」を示すのではなく、「何をするものか」や「どう働くのか」といった傾向の記事になっていった。
1985年ごろ、BIX (Byte Information Exchange) というオンラインサービスを開始。テキストのみの電子掲示板サイトで、CoSy というソフトウェアを使っていた。接続はダイヤルインか、1時間単位の使用料が余分にかかる Tymnet X.25 ネットワークを利用できる。月額使用料は13ドルで、X.25接続の場合は1時間1ドルかかる。CompuServeとは異なり、高速アクセスでも料金は変わらない。バイト誌のスタッフの多くがサービス運営に関わった。後にゲートウェイが設置され、システム外と電子メールで通信可能となった。
1987年に表紙を一新し、従来のイラストに代わり、製品の写真が表紙を飾るようになった。Steve Ciarcia の "Circuit Cellar" が連載終了となった。
バイト誌は1980年代は成長を続けた。1990年には1インチ(2.54cm)ほどの分厚い月刊誌となっており、読者層は主にプロの技術者となっていた。年間購読料は56ドルで、当時としては高額な部類である。
アメリカ国外での流通
[編集]アメリカ国外では、カナダやイギリスなどの英語圏、ヨーロッパやアジアでは、総じて言えば、アメリカで印刷された英語版がそのまま輸出され流通することが多かった。たとえばイギリスでは書籍・雑誌・雑貨販売の全国チェーンのW・H・スミスの雑誌棚に並んだ[4]。ヨーロッパでは例えばフランスのパリやリヨン、イタリアのローマなどの大都市(の書店の棚)には並んでいた[4]。日本では紀伊國屋書店新宿本店の洋書販売フロアや、洋書販売で有名な丸善などでアメリカ版BYTEの輸入品が販売され、英語力がある人々が購読していた。
ただし英語圏でもオーストラリアでは、アメリカから本誌が届くまで日数がかかりすぎると苦情を寄せた人々がいて、1977年1月にオーストラリアのローカル版の販売が始まったことが、本国アメリカのBYTE Magazineの1977年3月号に書かれた。英語が苦手な人々向けには現地の提携出版社でアメリカの英語版記事を現地の言語へそのまま翻訳した記事やさらに現地で執筆された記事や現地の広告をいくらか加えて構成されたローカル版(姉妹誌)が発行された。日本では日本語版(姉妹誌)の「日経バイト」が1977年3月から発行となり、ドイツではドイツ語版が、ブラジルではポルトガル語版が発行されるようになった。台湾の繁体字中国語版は1991年から第三波文化事業公司により刊行。イタリア語版は1998年1月から1999年第16号までTechnimedia社から刊行。ヨルダンでは1998年にアラビア語版が発行されるようになった(これを発行したヨルダンの発行者 Khaldoun Tabaza(ハルドゥーン・タバーザ)自身が語ったところによると、これはヨルダンだけを対象にした発行ではなく、アラブ世界全体(アラビア語圏)に向けての発行だった[10])。トルコ共和国ではトルコ語版が2000年からドアン・ブルダ社[注 2]により発行となった。
インターネットの普及の影響
[編集]バイト誌は1993年にはウェブサイトを開設した。byte.com というドメイン名を取得し、一部の記事をウェブ上にも掲載しはじめた。
だが1995年ころからインターネットが本格的に普及すると、雑誌にとってライバルのような存在になり、ほとんどの雑誌は発行部数が減ることになった。バイト誌も例外ではなかった。
Byte誌の発行部数と広告収入が減ってくると、1998年5月、マグロウヒルはバイト誌をコンピュータ関連雑誌を専門とする CMP Media(後のUBM)に売却。編集者やライターはCMPが再活性化してくれると期待したが、1998年6月号を最後に休刊となり、CMP Media は大掛かりな製品実験室を閉鎖し、全スタッフを解雇した[11][12]。定期購読者には代わりとしてCMPのWindows関連の2誌のいずれかを選択できるようにした。
ドイツと日本ではバイト誌(の姉妹誌)の出版がそのまま続けられたが、日本の日経バイトは2006年1月号を最後に休刊となった[13]。トルコ版は数年間休刊したが、後に再開している。アラビア語版は突然休刊となった[14]。
バイト誌のコラムニストの多くは個人のウェブサイトへと執筆の場を移していった。中でもSF作家ジェリー・パーネルのブログ "The View From Chaos Manor" は長く続いたコラム[15]から派生しており、パワーユーザーの観点からコンピュータについて書いている。休刊後も、ジェリー・パーネルのコラムはトルコ版や日本版で連載され続けた。1999年、CMPはバイト誌をウェブ雑誌として復活させ、2002年から購読者のみ閲覧可能とした。2009年にはこれも閉鎖となった[14]。
Byte.com の再立ち上げ
[編集]2011年7月11日、UBM TechWeb は、"BYTE" の名を復活させ、BYTE.com を再立ち上げした。再立ち上げ時の編集長は技術系ジャーナリスト Gina Smith。2011年9月26日には Larry Seltzer が後を引き継いだ。
Byte.comは2013年に閉鎖された。2020年現在、このドメインはUBM TechWebが発行する姉妹誌の技術雑誌『インフォメーションウイーク』のウェブサイトにリダイレクトされている。
脚注
[編集]注
[編集]- ↑ 日本の報道の世界では「裏取り」と呼ぶ。ある人が何かを言っているのを聞いても、それが本当なのか嘘なのか実際には確かではないので、拙速に報道してしまう前に、別の関係者にも取材して、最初に聞いた話が本当なのか嘘なのか、別の角度から確認してからでないと報道するべきではない、というのが、まともな報道会社で言われていることである。要するに、報道する前に必ず、複数の関係者に取材してファクトチェックをしろ、ということである。
- ↑ 首都イスタンブールにある会社で、社名のトルコ語の完全な表記は Doğan Burda Dergi Yayıncılık ve Pazarlama A.Ş.。意味はドアン・ブルダ雑誌出版・販売株式会社。
出典
[編集]- ↑ Valery, Nicholas (May 19, 1977). “Spare a byte for the family”. New Scientist (London: Reed Business Information) 74 (1052): pp. 405–406. ISSN 0262-4079. "Byte magazine, the leading publication serving the homebrew market …"
- ↑ Carl Helmers. “What is BYTE -(the first) editorial”. BYTE (September, 1975): 4-5.
- ↑ BYTE.
- 1 2 3 4 “BYTE Magazine outside US”. 2026年7月16日閲覧。
- ↑ BYTE オンライン出版サイト Archived 2013年9月17日, at the Wayback Machine. 2012年7月9日閲覧
- ↑ Green, Wayne (August 1975). “73 Staff”. 73 Amateur Radio (179): 2 2007年10月9日閲覧。.
- ↑ Carlson, Walter (January 1985). “Green: a shade ahead of the market - Wayne Green”. Folio: The Magazine for Magazine Management. オリジナルの2012年7月8日時点におけるアーカイブ。 2008年1月16日閲覧. "Green relates that when he arrived at the office one day in November 1975, when the fifth issue was in the works, he found that everything had been moved out--the shoeboxes, the back issues, the articles and the bank account--by his general manager, who also happened to be his first wife, from whom he was divorced in 1965."
- ↑ Williamson, Gordon (1988). See Wayne run. Run, Wayne, run. Barkley. ISBN 9780945736011
- ↑ VisiCalc参照
- ↑ “خلدون طبازة يتحدث عن واقع مجلات IT في الأردن”. 2026年7月15日閲覧。
- ↑ “McGraw-Hill to Sell Information Group to CMP Media”. The New York Times. Reuters. May 6, 1998. p. D.3.
The McGraw-Hill Companies agreed yesterday to sell its Information Technology and Communications Group, which includes Byte and other computer magazines, to CMP Media Inc. for $28.6 million.
- ↑ Napoli, Lisa (June 1, 1998). “New Owners of Byte Suspend Publication”. The New York Times. p. D.4.
Byte's circulation has fallen to a recent average of 442,553 from 522,795 in 1996. Advertising has also fallen. In January, for example, Byte published only 61.5 ad pages, less than half the number of pages the magazine had in 1996.
- ↑ “日経バイト 2006/01号”. 2012年7月9日閲覧。
- 1 2 Tom's Unofficial BYTE FAQ:The Death of BYTE Magazine, by former Byte journalist Tom R. Halfhill, on his personal website]
- ↑ 日経バイトでは『混沌の館にて』として連載
参考文献
[編集]- Ranade, Jay; Nash, Alan (1994). The best of BYTE. New York: McGraw-Hill. p. 641. ISBN 0-07-051344-9
外部リンク
[編集]- トルコ版BYTE - 唯一今も出版されているバイト誌。UBM Techweb のサイトとは無関係。
- HomeLib 初期の各号の目次
- VC&G Interview: Robert Tinney, BYTE Cover Artist and Microcomputer Illustration Pioneer